翌朝。 美希はいつものように目を覚ました。 空は今日も気持ちよく晴れ渡っている。 彼女はベッドから出ると、出勤の準備をはじめた。 いつものようにシャワーを浴び、軽い朝食を作る。 今朝はトーストとスクランブルエッグだった。 一人暮らしを初めて早2年。 当たり前の朝の一時である。 テレビでは今日の天気や占いなど、どのチャンネルに替えても同じような内容だった。 美希は6月生まれの牡牛座。 今見ているチャンネルでは運勢はベスト3であった。 「ラッキーカラーは赤、今日は素敵な出会いがあるかも」 ブラウン管の中で毎日顔を合わせている女性がそう語っていた。 美希はそれをトーストを囓りながら見ている。 …出会いねぇ… 占いを信奉するような事は彼女にはなかった。 だが、ラッキーと言われれば満更ではない。 彼女には付き合っている男性はおろか、好意を抱いている存在すらなかった。 仕事柄、子供とは多く接していても、同世代の異性と顔を合わせる機会は殆どない。 しかも、もう22歳になっているのだ。 ………………… 意識する気はなくても、何故か気にしている自分がそこにいた。 「あ〜、やめやめ」 しかし、美希はそれを自ら打ち消すと、テレビのスイッチを消し立ち上がる。 そろそろ出勤の時間であった。 彼女は使った皿をそそくさと洗うと、着替えを済ませ家を出る。 「さぁ、今日も頑張るぞ」 そして、そう自らに言い聞かせると、自転車に乗り幼稚園へと向かう。 もう昨日の手紙の事はすっかり頭から消えていた。 「あっ、美希ちゃ〜ん?」 幼稚園にたどり着き、駐輪場に愛車を止めた彼女の元に一人の女性が走り寄ってきた。 彼女の名は阿井坪千夏。 美希の同僚である。 年は彼女より2つ上だが、超がつくほどおっとりとしており、スローペースな喋り方が相まって、とてもそうは見えなかった。 もちろん美希にとっては信頼出来る先輩であったが、そんな彼女が珍しく慌てているのだ。 「おはようございます。どうかしましたか?」 「あ、あ、たかしくんが…」 するとおろおろとしながら千夏はある名前を口に出した。 そう、それは美希が受け持っている園児の名である。 「…え!?」 美希の脳裏に不安が過ぎった。 …まさか…事故にでも… そして、嫌が上でも最悪の事態を想定してしまう。 冷や汗が出てくるのが自分でもわかった。 「たかしくんがどうしたんですか?千夏さん!」 美希は千夏に縋りつくように声を上げる。 彼女が喋るのを待っていられなかったのだ。 「あ…あ…」 そんな美希の迫力に押されたのか、千夏は口をぱくぱくとさせている。 「あ…、そ、それで…?」 美希は自らの態度に彼女が驚いている事を察すると、気持ちを落ち着かせながら、一歩後ろへ下がった。 「あっ、たかしくん…風邪でおやすみなんですって…」 ……………………… …………え? 千夏の言葉に美希は狐に抓まれたような顔を浮かべる。 そして、ゆっくりと彼女の言葉を再度反芻してみた。 …風邪でおやすみ… 体の力が嫌が上でも抜けていくのがわかった。 「あっ、そうですか。わざわざありがとうございます」 それでも、美希は笑顔で千夏にそう声をかける。 「いえいえ、どういたしましてぇ」 すると、彼女もにこやかな顔つきで事務所の方へ戻っていった。 駐輪場に一人取り残される美希。 酷くバカを見た気分だった。 もちろん千夏を責めようはない。 わざわざ知らせてくれた事は彼女なりの配慮なのだから。 それゆえに、人一倍ヒートアップしてしまった自らが恥ずかしかったのだ。 …まぁ、それでも事故とかじゃなくてよかったかな しかし、美希はそう考えると、すぐに気持ちを切り替える。 …あ… その時、彼女は昨日の事を思いだした。 それはあの謎めいた手紙の事である。 それには、美希がたかしにスカートを捲られると書いてあった。 だが、それはその機会自体が有り得ない事になったのだ。 しかも、よくよく考えれば、今でこそスカートを穿いているものの、子供たちと接する時はズボンなのだ。 これは手紙の主が、美希が思ったよりも何も彼女の身の回りを観察していない事を意味していた。 …なんだ…ホントただの嫌がらせみたいね 彼女はすっかり安心した様子で、幼稚園の中へと入っていった。 その日は何の問題もなく過ぎていった。 喧嘩する子供たちもおらず、いつも以上に楽な1日である。 それでも、美希は手を休める事はなかった。 積極的に子供たちに声をかけてやり、遊び相手をしてあげる。 子供の世話をするのが好きな彼女にとっては掛け替えのない時間だった。 こうして、あっという間に1日が終わるのだ。 「また明日ね〜」 美希は送迎バスに乗っていく子供一人一人に優しく声をかけた。 「ばいばい〜」 子供たちも笑顔で彼女に応える。 それだけで嬉しくなってしまう彼女だった。 そして、バスが見えなくなるまで彼女は手を振り続けた。 子供たちが自らの方を見ている事を信じて。 「さぁ、私たちも早めに上がりましょう」 そんな彼女に、千夏が声をかけてきた。 「ええ、そうですね」 美希は満足そうな顔で頷くと事務所に戻っていく。 幾つかの事務仕事をこなし、外に出た時には、既に空は夕焼けに覆われていた。 …あぁ…今日も頑張れたかな… 美希は空を見上げながら、今日の出来事を振り返る。 …バサッ 「…………………え?」 その瞬間、ひんやりとした感覚が下半身を走った。 それは、自らのスカートが捲れ上がった事に他ならない。 ……うそ… 彼女は驚いたように後ろを振り返った。 「わ〜い、ピンクいろだぁ」 すると、よく知った子供が駆け回っている。 彼女の下着の色を口ずさみながら。 そう、それはたかしに他ならなかった。 「何してるの!」 美希より先にその言葉を口走ったのは、たかしの母親と思われる人物だった。 「ほら!早く謝りなさい!」 彼の体を押さえると、険しい表情でその目を見ながらそう促している。 「…あ…」 美希の出る幕はなかった。 「ホントに…この子ったら…本当に申し訳ありません」 たかしを彼女の方へ向かせると、母親は申し訳なさそうな顔で何度も頭を下げる。 「い、いえ…私はいいんですけど…、たかし君…風邪ひいたんじゃなかったんですか?」 美希は思わず母親に向かってそう尋ねていた。 「ええ、今朝まで少し熱があったんですけど…、お陰様で昼にはすっかり下がったんですよ」 「それで、ちょっと用があって近くまで来たものですから…挨拶に伺がったんです」 「そうですか、それはよかったですね」 美希はこの親子に笑顔で応える。 もちろん、偽りのない表情だった。 「ほら、たかし!早く謝りなさい!」 だが、それでも母親は息子が謝るのを何度も促し続けている。 「う…うう…ごめんなさい…ぐすっ…」 そして、ようやく涙声で頭を下げるたかし。 美希は逆に恐縮する思いだった。 「本当に申し訳ありませんでした」 「いえいえいえ、ご心配なさらずに…」 「それじゃあ、たかしくん。また明日ね」 「う、うんっ」 こうして、美希はたかしとその母親に見送られるように、幼稚園を後にする。 ……………………… だが、その帰り道、彼女はさすがに気が気ではなかった。 あの手紙は、今回も現実になったのだ。 しかも、部外者の力が入り込む余地がない形で。 もちろん、差出人に屈する気はなかったし、数日前からたかしに吹き込んでいたという可能性もある。 だが、それでもこうまで見事に当たってしまうと、気にするなと言う方が無理であった。 そして、家に戻ると、やはり今日も1通の封筒が投函されている。 「………………………」 じっとそれを見つめる美希。 だが、読まずに捨てる事は出来そうになかった。 彼女は部屋に入ると、封を開けてみる。 すると、中に入っている紙切れには… <明日、阿井坪千夏が結婚が決まった事を教えてくれるでしょう> と書かれていた。 ……え? 美希は目を丸くする。 千夏とは仕事以外にもプライベートで遊びに行く事はよくあった。 だが、一度たりとも付き合っている男がいるという話は聞いた事がない。 まさか、この差出人は彼女までストーキングしているのかと思った。 そうでもしなければ、この内容は知り得る筈がないのだ。 しかし、逆にこれが事実だとすれば、めでたい事ではあっても、美希にとっては寂さを禁じ得ない。 ゴールインした事ではなく、その素振りを見せてくれなかった事に。 …明日になれば…わかるのかな… 美希は複雑な気持ちで、その手紙をゴミ箱に捨てた。 しかし、翌朝、思わぬ展開が美希を待ち受けていた。 「あっ、美希ちゃ〜ん」 昨日と同じように駐輪場に自転車を止めた彼女の元に、千夏が駆け寄ってくる。 …まさか… 美希は思わず息を飲んだ。 「私ですねぇ…結婚する事になったんですよぉ」 そして、千夏の口から、昨日の手紙が真実である事が語られる。 「…ほ、ホントですか?…おめでとうございます」 案の定、湧き上がってくる寂しさを見せないように、美希は気丈に喜んで見せた。 「ありがとうございますぅ」 千夏はとても嬉しそうだ。 「あ…でも、お相手は誰なんですか?」 そんな彼女に、美希は尋ねてみる。 社交辞令的なものだったが、千夏が決して語る事のなかった相手が誰であるのか興味があった事も事実だった。 「えっとですねぇ、38歳の会社員の方なんです」 「そうなんですか…、お付き合いはどのくらい?」 随分年が離れているなと思いながらも、美希は続けて質問してみる。 「はい、実はですねぇ…昨日初めて会ったんですよぉ」 「……………え?」 すると、千夏の口からは予想だにしない答えが返ってきた。 「は、初めて会ったって?…それで…結婚を…?」 美希は驚きを隠す事もせず、千夏の話にのめり込むように耳を傾ける。 ……………………… そして、数分後。 彼女は誰もいない遊戯室の角にしゃがみながら、これまでの経緯を思い出していた。 千夏の口ぶりからすると、昨日初めて会ったというのは偽りではない。 だが、まさか彼女が即日で結婚を決めてしまったのは意外でならなかった。 のほほんとしている千夏だが、少なくともノリで動く女性ではない。 しかし、概ね嬉しそうで、むりやりという訳ではなさそうだった。 …でも…そう考えると… 彼女は手紙の事を思い浮かべる。 少なくとも、手紙が投函された時点で、千夏が結婚するという事は全くの絵空事だったのだ。 だが、それが1日以上を経て、事実に変わった。 差出人はその事を知っていたのか? いや、もしかしたら、千夏の相手こそ…その差出人かもしれない。 でも、初対面の女性とその日のうちに結婚に漕ぎ着ける事自体が現実的ではなかった。 それに、何故わざわざ自分のところにそんな手紙を出しているのか? 「…う〜ん…さっぱりわかんない…」 謎だけが増えていくばかりだった。 そして、その日の夕方も、ポストにはいつものように手紙が投函されている。 差出人の名前のない封筒。 今日はどんな事が書かれているのか…。 美希は胸が締め付けられる思いだった。 「……………………」 しかし、やはり読まない訳にはいかないのだ。 一種の怖いもの見たさという奴だった。 「………………」 <明日、坂井美希は商店街のくじ引きで2泊3日の国内旅行を当てるでしょう> すると、今日はこう書かれていた。 …そういえば…そんなのやってたっけ …でも、抽選券なんか1枚も持ってないし、あれって3000円で1本だよね 美希は少しだけホッとした気分だった。 しかも、明日も幼稚園がある。 普通に買い物する時間などなかったし、例え抽選券を貰ったとしてもくじ引きをしなければいい話だった。 …やっぱり、ただ偶然が重なっていただけよね 確かに千夏の結婚まで予告した薄気味悪い手紙ではあるが、外れたその瞬間に、ただのいたずらでしかなくなるのだ。 「さて、ご飯、ご飯♪」 美希はその手紙を丸めて捨てると、夕飯を作るべくキッチンへ向かう。 だが、心のどこかに何故か残念がっている自分がいる事に気づく由はなかった。 翌日の夕方。 美希は商店街に来ていた。 もちろん買い物をする気はさらさら無い。 だが、何故か足を運んでいたのだ。 もっとも、あの手紙が外れるところを見てやろうと思ったのかもしれない。 しかし、それをはっきりと自分に納得させる事は出来なかった。 ………………… 時間は午後7時を回ろうかとしている。 今なお人通りの多いアーケード街の一角に、仮設テントが建てられ抽選所にあてがわれていた。 特賞は32インチの大型テレビ、金賞は4泊5日の海外旅行である。 そして、国内旅行はそれに次ぐ3位の銀賞だった。 今も数人の主婦や若者が三角くじの入った箱に手を入れている。 美希はかれこれ5分ほどその光景を見ていたが、皆、参加賞のティッシュを貰っているだけだった。 …あ〜あ、私…なにしてんだろ …なんかバカみたいだよね 彼女は次第に虚しくなっていくのを感じていた。 自分でくじ引きをする訳でもないし、仮に誰かが当たったとしても彼女の得になる訳もない。 逆にこのまま帰れば、あの手紙は見事に嘘になるのだ。 …そろそろ帰ろうかな 何故か得体の知れない躊躇いが彼女を襲っていたが、それでもようやく踏ん切りがついた気がした。 「おめでとうございま〜す」 その時、抽選所から威勢のいい声が響いてくる。 誰かが当たりを引いたようだった。 「銀賞の伊豆熱海ペア2泊3日ご当選〜」 鐘を鳴らしながら半被を来たスタッフが叫んでいる。 どうやら、運のいい当選者は初老の女性のようであった。 「それでは、こちらで手続の方をいたします」 スタッフに呼ばれ、テントの端の方へ導かれる女性。 …あの手紙、当てるのを見る…の間違えじゃないの? …まぁ、でもこれで気持ちよく帰れるかな… 美希はそう思うと、ゆっくりと帰路に着こうとした。 「お名前教えて頂けますか?」 「はい、さかいみきと申します」 ……………………… …え!? だが、背後から聞こえてきた声に美希は思わず耳を疑う。 「坂道の坂に井戸の井で坂井、みきは美しい希望です」 …………………… …うそ… 彼女が驚くのは無理もなかった。 目の前で国内旅行を当てた女性は、美希と同姓同名だったのだ。 ……こんな事って… 美希は自然に体が震えてくるのがわかった。 確かに昨日の手紙には「坂井美希」が国内旅行を当てると書いてあるだけで、彼女自身が当てるとは書いていなかった。 それは、見事にあの手紙が事実を証明した事を物語っている。 しかも、どう足掻いても作為の余地はない。 …また…当たった… ここまで来ると、ただのいたずらとは到底思えなかった。 しかも、ある種、その手紙が何かのお告げのような気がしてならない。 少なくとも、最初思っていたようなストーカーの仕業だという考えは、今の彼女には持ち得なかった。 「…急がなきゃ…」 そして、彼女は大急ぎで家に向かって走るはじめる。 もちろん、それは今日配達されているであろう手紙を見るために他ならなかった。 夢でも見ているかのような興奮に襲われながら。 「…そ、そんな…」 大急ぎで家に戻った美希だったが、配達されていた手紙の内容を見て愕然とした。 そう、その中には信じられない事が書かれていたのだ。 もちろん、今までもそうであったが、今回は極めて危険なものである。 それは、 <明日、恋乃窪幼稚園に不審な男が乱入するでしょう> というものだった。 もちろん、明日もいつも通りに幼稚園は開園している。 すなわち、それは大勢の園児が危険にさらされる事を意味していた。 彼女や同僚を含めて。 「……どうすればいいの…」 美希はその手紙に書かれた文字を眺めながら、絞り出すように声を上げた。 これまでの経緯から考えて、間違いなくこれは現実のものになる。 だが、彼女がそれを事前に警告しても、おそらく誰一人として信じてくれるものはないだろう。 それだけならまだしも、その事を誰かに話してしまえば、事件が起きてしまった後、美希自身に共犯の疑いがかかる可能性すらあるのだ。 胸が締め付けられる思いだった。 だが、どうしても何か手を打たなければいけない。 子供たちに危害が及ぶのは絶対許せなかったからだ。 「…………あ………」 すると、その時、美希の脳裏に一つの可能性が過ぎった。 ……乱入する…って書かれてるけど、その後どうなるかは書いてないわよね… …これって…乱入した後に…撃退する事も出来るって事なのかな…? もちろん真っ向から向き合って男に勝つ自信は美希にはない。 しかも、一歩間違えば逆効果になる事も有り得るのだ。 だが、事前に心構えが出来ていればやりようはあるはずである。 「…やっぱり…私が何とかするしかない…」 限りなく危険な賭けではあるが、少なくとも彼女には別の良案は見つけ出せそうになかった。 …お願いします…上手くいきますように… 美希は覚悟を決めると、静かにそう願った。 そして、すぐに運命の日がやってくる。 こんな日に限って、空は気持ちが悪いほど穏やかに晴れ渡っていた。 普段ならそれを見るだけで胸が躍っていただろう。 だが、今日はとてもではないがそんな気分にはなれなかった。 …死刑台の階段を昇るってこんな気分なのかな…? 美希は不謹慎にもそんな事を考えてしまう。 自分でも何を考えているのだろうと困惑してしまうような発想だった。 しかし、時間は待ってはくれないのだ。 そうこうしているうちに、美希は幼稚園にたどり着いていた。 何も変わらない普段通りの光景。 「…………………」 それでも彼女は何度も辺りをきょろきょろと見回すと、忍び込むように中へと入っていく。 …なんか…これじゃ私が不審者みたい… だが、今のところは特に怪しい者がいるような様子はなかった。 …とりあえず…子供たちが来る前に準備をしなきゃ… 美希は昨晩から考えていた事を実践すべく、さっさと着替えを済ませるとタイムカードを打つべく事務所へ向かう。 そこには既に同僚たちの姿が見えており、子供たちが来る前の一時をそれぞれのペースで過ごしている。 千夏は文庫本を読んでおり、もう一人の同僚である高蔵寺ちひろは携帯ゲームに興じていた。 「おはようございます」 美希は事務所に入ると二人に声をかける。 「あっ美希ちゃん、おはようございます」 「おはよ〜さん」 すぐに二人からも声が返ってきた。 何もなければ、そのまま雑談モードに入るのだが、今日に限ってはそんな暇はなかった。 美希は自らの席に座ることなく、タイムカードを打つとそのまま事務所を出る。 「ん?どうかしたん?」 すると、背後からぶっきらぼうな声が響く。 それはちひろの声だった。 彼女は美希と同い年で、お互い遠慮のない仲である。 少し気むずかしい性格と口の悪さを除けば、同姓の美希から見てもいい女だった。 もっとも、ちひろ自身、理由はわからなかったが男に嫌悪感を抱いており、美希と同様独り身の存在ではあったが。 「…え、えぇ?」 そんな彼女の声に美希は驚いた顔を隠す事も出来ず、どぎまぎしながら振り返る。 「美希、何かあったのか?」 ちひろは携帯ゲームの画面を見つめながら、そう口を開いた。 何も知らない人が見れば、とてもいい加減な振る舞いだったが、それが彼女のスタンスだった。 事実、美希の胸の内を完全に見透かしている。 「………………?」 そんな二人を千夏だけはただ不思議そうな顔で眺めていた。 「そ、そうかな?ちひろの思い過ごしだよ」 だが、それでも美希は必死に平静を取り繕うと笑顔で言い返す。 もちろん、ちひろはその辺りの見極めも半端ではなく、とても騙し通せるとは思わなかった。 しかし、さすがに手紙の事を話しても信じてはくれないだろう。 それならば、最後まで何事もなかったように振る舞うのが彼女にとっての意地だった。 「そうか、いや…ならいいんだけど」 すると、あっさりとちひろは引き下がる。 しかし、それは決して突き放したのではなく、美希に事情がある事を察してくれたのだろう。 それはこれまでの彼女との付き合いでよくわかっていた。 …ありがとう、ちひろ… 美希は心の中でそう呟くと、事務所を後にする。 彼女が考えた策とは、園内のあちこちにこれから来るであろう招かれざる客と対峙するための「武器」を配置する事だった。 もちろん、子供がいる場所である、物騒な物は置ける筈もない。 それでも、花瓶や厚い絵本、金属製の掛け時計など…気取られることなく、かつ扱いやすい「武器」を美希はさり気なく設置していく。 とは言っても、花も生けていない花瓶が2つや3つ並んだり、膝くらいの高さに時計が掛かっているなど異様な光景なのは間違いなかった。 インテリアを考えれば失笑ものであろう。 だが、可愛い子供たちの命が掛かっているのだ、背に腹は代えられなかった。 こうして、準備が整った頃、園児たちを乗せたバスが到着し、園内は無邪気な子供たちの声があちこちで響き渡りはじめる。 …いよいよ…ね… 美希は改めて覚悟を決めると、それを表に出すことなく子供たちを出迎えに向かった。 時間は刻一刻と過ぎていく。 しかし、今のところ乱入者の気配はなかった。 本来であれば幼稚園の周りも確認すべきなのだが、その隙を突かれる事を恐れ、ただ園内で子供たちを見守るしか手がなかった。 既に午後のお昼寝の時間を迎えている。 「せんせいもねないのぉ?」 既に大部分の子供たちがすやすやと眠りについていたが、最後まで起きていた侑香という女の子が美希に声を掛けてきた。 「うん、それじゃあ、一緒に寝ようか」 「うんっ♪」 美希は彼女に付き合ってあげるべく、寄り添うように横になる。 もちろん、その間もいつどこから男が侵入してくるのか気が気ではない。 それでも、だからといって侑香をおざなりにする訳にはいかなかった。 無音の室内。 そんな中、薄目になりながら美希は彼女が寝静まるのを待つ。 だが、不覚にも美希自らの意識が薄れていくのだ。 事実、心配で昨夜は殆ど睡眠を取っていなかった。 そのツケがここに来たのだ。 …うう… …ダメ…寝ちゃ…ダメ… 彼女は希薄になっていく意識を必死に繋ぎ止める。 ………………… …………… だが、それも虚しく美希は完全に意識を失っていた。 …………… …はっ… それでも、暫くの後、彼女は再び意識を取り戻す。 しかし、どのくらいの時間が経過したのか美希にはわからなかった。 目の前では侑香がすやすやと眠っていた。 彼女はその寝顔に安堵しながらも、完全に目を覚ますべく何度も瞬きを繰り返す。 そして、ようやく気怠さが治まると、起きあがるべく顔を上げた。 ……う、うそ…… だが、そこで美希は驚くべき光景を目にする。 その視界に見知らぬ背中が見えたからであった。 顔は確認する事は出来ないが、その肌の色やシャツから覗く腕を見る限り、男である事は間違いなかった。 しかも、その男は下半身を剥き出しにしており、今まさに眠りについている一人の女子園児のタオルケットを剥ぎ取っている。 …こい…つ…なのね… 間違いなく目の前の存在が侵入者だった。 美希は気づかれないように身を起こすと、仕込んであった花瓶をそれぞれの手で掴む。 時間に余裕はなかった。 男は園児の全身を眺めながら自らの体を揺すっている。 男根を扱いている事は疑いなかった。 …お願い…上手く当たって… 彼女は一撃で男を仕留められ、かつその子に被害が及ばない事を願いながら、一歩一歩距離を縮めていく。 ……当たれぇ!! そして、手に持っていた花瓶を力いっぱい振り下ろした。 …ガシャーン 「……うごぅ……」 男は生々しい声を上げながら体勢を崩す。 だが、意識は残っており、すぐに美希の方を振り返った。 髭面の野蛮そうな中年男。 しかし、その顔を凝視する暇もなく、再びもう一方の花瓶を男に向かって叩きつける。 …ガシャーーン 「ちひろぉ!千夏さんっ!」 そして、大声で同僚たちの名前を叫んだ。 「どうした美希ぃ!?」 最初の衝撃音で既にこちらに向かっていたのか、すぐさまちひろが部屋になだれ込んでくる。 「こ、この男が…侵入してきたの!」 美希は男が眺めていた園児を抱き寄せながら、事情を手短に話す。 「け、警察を…」 すると、数秒遅れて千夏が大急ぎで事務所へと走っていった。 「………うごぉ……ぉ…」 男は脳しんとうでも起こしているのだろう、その場に蹲ったままうめき声だけを上げている。 既に何人かの園児が目を覚まし、中には泣き声を上げるものもいた。 「美希っ、早くエプロンを!それからこの部屋の子供を外に連れ出すんだ!!」 すると、ちひろから矢継ぎ早に指示が飛んだ。 「うんっ、でもちひろは!?」 「こいつを逃がす訳にはいかないからな、縛り上げておくんだよ」 彼女は美希から受け取ったエプロンを自らのものとつなぎ合わせると、ロープのように男の体に巻き付ける。 そして、引きちぎれそうな程にそいつの体を縛っていく。 その間、美希は次々と子供たちを部屋から連れ出していった。 まだ緊迫感から解放される事はなかったが、改めてちひろの頼もしさを痛感する思いである。 こうして、数分後にはサイレンの音が鳴り響き、警察が男を捕まえた。 園児への被害はなし。 もちろん美希たちも…であった。 だが、その後、彼女たちは多忙に追われる事になる。 園児の保護者への対応はもちろん、警察による聞き取り調査などで、解放されたのは日付が変わる間際であった。 唯一の救いは、明日が休みだと言う事だろう。 それでも、無事に済んで良かったと思う美希だった。 「美希、ちょっと遅いけどお茶でも付き合えよ」 警察署を出ると、ちひろがそう口を開く。 何か言いたい事があるのは明白だった。 そして、それが何であるかもだいたい美希にも見当がついている。 「うん、いいよ」 断る理由はなかった。 こうして、二人は近くのファミレスへと足を運ぶ。 さすがに時間が時間だけに、店内の客は疎らだった。 美希はコーヒー、ちひろはミルクティーを頼み、既に目の前ではそれらがカップから湯気を立てている。 そんな中、二人は無言のまま向き合っていた。 既に1分ほど時間が経過している。 「……お前さ?」 だが、最初に口を開いたのはちひろだった。 手でカップを回しながら、しっかりと美希の目を見据えている。 「最初から、今日の事知ってただろ?」 彼女は単刀直入に核心を突いてきた。 「……うん…知ってた…」 美希ももはやごまかす気はなかったので、素直にそれを認める。 「どうして…知ってたんだ?…それに、何でわたしらに話してくれないんだよ?」 ちひろの言葉は嫌が上でも語気が荒くなっていく。 だが、その瞳はそれとは裏腹に悲しさが漂っていた。 彼女と親しい者でなければ決してみる事の出来ない真摯な姿勢。 「だって…私にとっては当たり前だけど、ちひろは信じてくれないかも…って思ったから」 美希はそう言うと何度も首を振った。 もちろん、決してちひろを軽んじている訳ではない。 しかし、だからこそ言えなかったのだ。 そして、それを明確に説明出来ない自分がもどかしかった。 「…相変わらずだな、美希は」 すると、ちひろはテーブルに肘を突くと、にんまりと笑みを浮かべている。 先ほどとはまるで別人のような表情だった。 「…ちひろ」 「いったい何年一緒に仕事してんだよ?お前が嘘つくような女じゃないのはわたしが誰よりよく知ってるつもりだぜ?」 「まぁ、そう言うぐらいだから、よっぽど凄い事なんだろうけどな」 まるで茶化すかのようにおどけてみせるちひろ。 だが、それだけで美希は癒される思いだった。 「実はね…」 そして、今までの経緯を全て彼女に伝えていく。 それだけで随分と楽になった気がした。 「…ふ〜ん…凄い話だな」 こうして、美希が全てを話し終えると、ちひろは感心したように口を開いた。 「信じてくれるかな?」 「あぁ、信じるさ」 「ありがとうね、ちひろ」 美希は安堵の表情を浮かべる。 「…だけどな、美希」 しかし、すぐにちひろはそんな彼女に釘を刺した。 「確かにその手紙は凄い…。けど…あまり鵜呑みにしてると、しまいには取り返しのつかない事になるぜ?」 その表情は厳しさの中に不安の微粒子が混ざっている。 「…取り返しのつかない事…って?」 「わからない…でも、何だかそんな気がするよ…」 美希の問い掛けにちひろはそう答えると、もうすっかり冷めてしまったミルクティーに口をつけた。 いわゆる女の勘という奴であろう。 「…………………」 彼女もこれ以上詮索するのを止めた。 だが、暫くはちひろのその言葉が脳裏から離れる事はなかった。 1ヶ月後。 手紙はあの日以降も、ずっと配達され続けている。 身の回りの出来事から、ワイドショーで出てくるような話題まで様々な事柄が書き記されていたが、もちろん何一つ外れる事はなかった。 幼稚園は既に平静を取り戻し、以前と何ら変わらぬ営みを続けている。 ちひろとの関係も決してギクシャクする事はなかった。 むしろ、今まで以上に言いたい事を言い合えるようになっていた気がする。 それでも、やはり気を遣わせたくはないので、手紙に関する事はあれ以来口にはしていない。 彼女の方も完全に封印してくれているようであった。 そして、今日も家に戻ると、いつものように1通の手紙が郵便受けに入っている。 いつもと同じ字、同じ消印。 今ではそれを読む事自体が、美希の生活の一部となっている。 1ヶ月前にちひろに言われた事はもはや彼女の頭にはなかった。 「さて、明日はどんなのかな?」 美希はどきどきしながら手紙を取り出す。 「……………………」 だが、そこに書かれていた内容を読んだ瞬間、彼女は言葉を失った。 <明日、坂井美希は恋乃窪幼稚園の園児たちの前でおしっこを漏らしてしまうでしょう> …そんな… それは余りにも惨めな予告である。 美希は血の気が引いていくのが自分でもわかった。 しかし、普通に考えればそれは回避可能な事である。 そもそも、お漏らしなどした記憶自体がないのだ。 …どうしよう… だが、今の美希は違っていた。 もはや、彼女にとって手紙の内容は絶対なのだ。 例えそれを美希が望まないとしても、彼女の心と体はその手紙が嘘になる事を恐れている。 「…おもらしなんか…しないよね…」 美希は何度もそう呟いたが、それはただ思い浮かべたに過ぎず、やけに頼りなかった。 しかも、深く考える事すら出来ないのだ。 まるで、そうなる事が必然であるかのように。 「…ご飯…作らなきゃ…」 そして、美希はその事を頭の隅に追いやるとキッチンへと向かった。 こうして少しずつ歯車は狂いはじめる。 |
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